IMG_5659

ブログのお友達 yokoさんに勧められて、図書館で借りて読みました。
100年ほど前に、見合い結婚の形式で写真結婚し、会った事のない男の写真を胸に、集団で船に乗りアメリカに渡った写真花嫁のお話しです。
話しの中には多くのケースが「私たち」(=写真花嫁たち)という主語を用いて語られ、それは不安な船旅に始まり、厳しい労働、子を産み育て、喪い、ようやく築いた平穏な暮らし、日米開戦時の不安と混乱、収容所へ、と進みます。

実は私の母方の祖母ツヤは写真花嫁でした。
アメリカに移民した同郷の男性(私の祖父亀之助)の元に写真花嫁として嫁ぎました。彼女は私が生まれる前に亡くなったので会った事はありません。私の中のツヤさんは母の話しに出て来る、私の母のお母さんです。なので、私はツヤさんを今まで母の目線でしか捉えていませんでした。

母は自分の母親を好きではなかったようです。
母は5人兄弟の下から2番目なので、母の記憶にあるツヤさんは渡米後数年が経った頃からのことでしょう。
母はアイダホで生まれました。その後カリフォルニアに移り、亀之助はレストランを経営していたそうです。
ツヤさんは英語を覚えず、子ども達はどんどん環境に適応して英語を喋り、日本語を忘れて行くので、親子のコミュニケーションも上手くできなかったといいます。
ツヤさんは日本人とばかりかたまり、家庭ではいつもイライラして文句ばかり言っていたそうです。亀之助は子煩悩で、妻がプンプンしていてもいつも黙って我慢して優しかったと母は言っていました。

この本の写真花嫁の苦難を読みながら、祖母はどんな想いでいたのだろうと、初めてツヤさんの目線で考えました。
亀之助とツヤは同郷だったのですから、まるで知らない人同士ではなかったかもしれません。幼い頃に遊んだ山や川を共有していたでしょう。共通の知り合いもいたのでは?そこが少し救われます。
亀之助一家は開戦の年の8月に、日本語を忘れた子ども達を連れて日本に戻りました。私の母が18才、ハイスクールの卒業間際でした。
祖父は不穏な空気を察知したのだと思います。
じいちゃん、すごいよ!

訳者あとがきを読んでびっくり。
著者のジュリー・オオツカさんは1962年にカリフォルニア州パロアルトで生まれています。私の10才下。
実は、私の父方の祖父母もアメリカ移民なのですが、住んでいたのがカリフォルニアのパロアルト。
父方の祖父、長三郎は開戦の7年位前に日本に帰国しました。その時、6人兄弟のうち私の父とその妹だけを連れ帰り、成人していた4人をアメリカに残して来ました。
私の父は日本軍に入隊しましたが、アメリカに残った4人の兄達はどうしたのでしょう?両親の心は張り裂けそうだったのではないでしょうか。

母のふるさとはアメリカです。アメリカへの望郷の想いが強い人でした。父の退職後、二人で一年間の期限付きで親戚の多いパロアルトに家を借りて暮らしました。
著者は多くの日系人を取材したようです。きっと本に出て来る人の中に私の親戚がいるのだろうな。
私の母が亡くなった時、パロアルトの親戚に連絡を取ろうとしましたが、住所録にある電話番号はすでに使われていませんでした。父母の世代の方々は高齢になられて既に以前の生活をされてはいないということだと思います。
聞いておきたかった事が沢山ありました。無常の想いです。
若い頃はなんとも思っていなかったことなのに、年を経ると自分のルーツを知りたくなるものなのですね。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ クリエイティブライフへ  にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ